2017年11月17日

瞬間まで精一杯

田舎の旧友が亡くなった事を知り事務所でぼんやりしていた。突然、FAXが入り、得意先の社長のお母様がお亡くなりになり、お通夜と告別式の通知だった。社長 phd hong kong のお母様とは面識があった。すぐに親しい古参社員から電話が入り、山梨市での告別式に行く事を告げた。

 明朝午前9時前に家を出て、東武線、ツクバエキスプレス、JR武蔵野線、JR中央線、最後は高尾駅で各駅停車に乗り換えた。相模湖や上野原、大月などを通過するにつれ、赤、黄色、オレンジの見事な紅葉風景が続いていて、思わぬプレゼントにしばし心が晴れた。トンネルを抜け勝沼に入ると、盆地に溜まった低い雲海に山裾は隠れ、紅葉した葡萄畑が雨に濡れて静かに伏せていた。 

 午後12時30分。電車を4回乗り換え3時間半かけて山梨市に着いた。醫研美ホームで同じ電車に乗っていた得意先の社員らと会い、タクシーに分乗し告別式会場に向かった。

 母上様の葬儀は神道による神葬祭でした。焼香の代わりに玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのを行いました。玉串とは紙垂(しで)と言われる白紙を榊(さかき)の小枝に付けたもので、これを霊前に捧げて二礼二拍手一礼しました。食事会では懐かしい顔と再会することができました。大恩人でも電子療法ある社長の人徳でしょう。良い葬儀というのがあるとすればこのような葬儀なのではと思いました。神葬祭は午後一時から始まり四時半頃に終了。帰りは古参社員らと四人で昔話に興じつつ、準急にて新宿まで行き散開し帰宅しました。

 故郷の家では仏壇と神棚があり、祖母は毎朝、仏壇と神棚のお供えを欠かしませんでした。今は神棚のある家は珍しくなりましたが、昔から日本人は神仏共存する生活をしていたわけです。お寺も神社も分けへだてなく参拝する日本人のおおらかさ。これは大事なことだと思っております。

 それにしても友人知人の訃報を多々知る年代になってしまいました。いずれ我身。その瞬間まで精一杯生きるしかありません。ファイト!であります。

  


Posted by cindy1232  at 17:07Comments(0)

2017年11月17日

課金はしていない

詳しくは上のリンク先の資料を見てほしいが、見たくないという人のために結論だけを言うと
支付寶hk

大幅な売り上げ減

これが話題で、噂では、ツイッターのトレンド入りもしたらしい。

いち白猫ユーザーとしては今後が非常に不安である。

誤解の内容に言っておくと赤字ではない。

おそらく出費を抑えた結果なのだろうが、黒字は黒字だ。
そういう意味で言えば、「もう年内持たない!」なんて危機的状況ではないようだ。

しかし、このままの状況が続けばわからない。

さらに不安なのは今後の経営方針だ。

コロプラは今後9本の新作をリリースするらしい。

うーん…

一番の売り上げを上げている白猫のユーザーおよび売り上げがここまで下がっている中でそれをやるのは愚策としか思えない。

こういう手段をとるのは馬場社長の”ミルフィーユ構造”という経営方針があるのだと思う。

ただ、この戦略は以前の記事(参考記事 白猫プロジェクトに感じる不安と不満)でも少し触れたが、2つの有り得ない前提がもとになっていると思う。

1つ目は、ヒット作が出続けること。

ヒット作と言うのはそうそう出るものでもないと思う。

例えば、ゲームメーカーとして有名な任天堂やスクウェア・エニックス、カプコンのようなメーカーでも一つのヒットを何本もシリーズ化して売り上げを作っている。

ゲームソフト一本一本でカウントすれば、例に挙げた企業は何十本とヒットを上げているような印象を受けるが、例えば、マリオ、ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、バイオハザードなど、それぞれのシリーズを全て一つとしてカウントすればそのヒット数は十分の一、二十分の一になってもおかしくない。

ヒットは出ないもの

そうみなしているからこそ、今も生き残っているメーカーは、良く言えばその作品を大切にして、悪く言えばその作品にすがってきたのだとおもう。

実際、コロプラは白猫プロジェクト以降ヒット作を出せていない。

2つ目は、何も知らないユーザーが現れ続けること。

過去のコロプラのゲームについて何も知らない、覚えてない、そんなユーザーが常に現れてくれる、そんな前提をもとにしている気がする。

だが残念ながら、白猫プロジェクトというゲームの運営の評判はネットを開けば転がっている。そもそもiTunesやGooglePlayに載っている。

さらに言えば、次のコロプラのゲームに最も注目するのはおそらく、今のコロプラのゲームのユーザーだろう。

その人たちが、次のゲームに対して何の予断も持たずに始めるとは到底思えない。前にやっていたゲームが悪ければ「次も悪いだろう」と考えて遊んでくれないかもしれない。遊んだとしても、お金は払ってくれないかもしれない。

実際俺自身、白猫を始めた後にリリースされたコロプラのゲームは触ってはみたものの、課金はしていない。
継続して遊んでもいない。

運営の仕方にうんざりした後に出たゲームはそもそもやってない。

そんなわけで、新しいゲームを出すのならまず白猫を大事にしなおしてみる。もう一度白猫に力を入れる、それをやらなければいけないのではないだろうか?

個人的に思う、売り上げとゲーム内容及び運営を改善する案を2つ出しておく。

1つ目は過去キャラの復刻

白猫プロジェクトというゲームは去年の1月まで過去のキャラを復刻しないという方針にしていた。
それ以降のキャラは復刻もあるのだが、それまでのは復刻しないと公言している。

それを撤回する。

ユーザーの一部には「裏切られた!」と思う人もいるかもしれないが、そこは何らかの補償をする。それでも納得できなくい人は仕方ない。

俺としては、喜ぶユーザーの方が多いと踏んでいるのでその人たちには申し訳ないが「損して得とる」ようにするべきだと思う。

そうでないと、いまそうであるように、コストを費やして上方修正しても利益にならないことが、上方修正に及び腰にさせていて、それが結局のところ、ユーザーの利益になっていないのではなかろうか?

1年たてば性能的に使えなくなるのなら、課金するメリットは低い。それを補うのが上方修正なのに、それが中途半端では課金する人も減るだろう。

2つ目はスタミナ制の採用

白猫にはスタミナ制がない。いつでもどこでも好きなだけ遊べる、それが売りでもあるのだが、別のソシャゲと違って、遊んでもらうことが利益につながっていない。
それ故にガチャでお金を稼ぐしかなくなっている。それが今の過度のインフレと別枠限定の廃止につながっているような気がする。

「前の限定キャラ手に入りませんでしたか?安心してください。今度のキャラはもっと強いですよ!ただし、16人中2~3人しか出ないので頑張って課金して回してね♡」

これを繰り返すしかなくなっているように見える。

そのせいでユーザーは疲弊していると思う。

そしてユーザーの疲弊がそっくりそのまま売り上げの減少として今顕在化しているのではないだろうか?

それを思うと、スタミナ制というのは健全な運営をするためには上策であり、ユーザーにとっては多少不便であるが、大局的な視点で見れば結局得なのではないだろうか?

スタミナ制というとマイナスイメージの方が大きいかもしれないが、俺自身は「ゲーセンのゲームを100円払ってやるようなもの」と思っているのでそこまで嫌なイメージはなく、むしろ当然だ。

もちろん、スタミナが満タンの状態でどれだけ遊べるかにもよるし、そもそもゲームがおもしろいということが前提なのだが。(白猫を面白くする方法は上に挙げた過去記事でも触れたのでここでは詳述しない。気が向けば記事にする)

最後に言っておく。

白猫は良ゲーだ。

魅力的なキャラとその多さ、良いストーリー、快適な操作性、便利なUI、タウンというやりこみ要素などなど。

俺はそんなに多くのソシャゲに触れてきたわけではないが、少なくとも、その少ない中ではナンバーワンだ。

そういう意味でも、その面白さをガチャの乱発、過度なインフレによって「ついていけない…」と思わせるような運営はやめてほしい。

白猫はおもしろいということを誰よりも運営が理解していないような気がする。

このゲームのポテンシャルならV字回復だって可能だと俺は思う。「白猫テニス」のようなスピンオフ的な作品も「白猫2」のような続編だってまだ展開可能だと思う。

だが今のままではだめだ。

「白猫は良運営だ!」そう思ってもらえるようにならねば何をやっても「どうせコロプラの運営じゃね…」そう思われて手を出してもらえない。

だからこそ、もっと今の白猫を大事にしてほしいものだ。  


Posted by cindy1232  at 17:05Comments(0)

2017年08月26日

わからない其义だが、その形

扉をあけて、過去に通じる。時空を越えないで、流れて行く河辺の河辺、靑緑の柳を見ると、死んでの枯らす。今日と昨日は1日でしている。
一番好きな古い校区から出発して修江川のほとりで、ずっと黄庭坚記念館へ行く。例えば・ラプターズ寝返りの修江、時々撮っひとしきり大波を持って、ピュアなニュースを伝え、それを飲むの四方。に釣り人は、私が足を止めたり、川の岸辺の修理や魚にかけて興奮の釣り人の手で。通常马家州が過ぎて浮き橋を越えて、雄威の修の川、不屈の雄姿に揺れて。早く忘れたい眺め林後の屋根の日はまた覚えていて、その川岸でおなじみの土味。
これまでと違って、今私は旅行用の袋を背負って、直接的に入るしかない栄枯は起伏して、ポプラ遮日、人通りの遊園地。そこに私は、1か所の庇護の地方かもしれない、物思いに憧れて、手を伸ばして書くかもしれない、でも私は絶対に展望未来。いつでも発作の大河、すべての幻、すべてが泡になる可能性がある。やる気や興味が失せる、もう袖の下起き上がり、有形の無の神の浪人、遊走なじみの場所。
第二駅は浮き橋だ。最高で止まって岸辺、深水に淺い流れの小魚を眺めて、橋の上を歩くのが遠くない。最後、私は両手を広げて、昨日、恍の惚麗の。この川に前に曲がり、後ろ橋の風景の中に、私は自分の屋台のインクのつもりで、たまには感傷的になって、やはりそんなに洒落。
過ぎ終わって第1基の浮き橋、向こうの山の斜面にある古い寺という青岩寺。四方を山の緑環化、隠して、天然の障壁にも探し出せないことが恐くなくて、意外にもそれを。人はもう少し近くにすれば、きっとあの抑揚の鐘の線香をそそるとが、訪ねた欲望。蛇行小道に沿ってたたく山門、あなたはきっとびっくり道:“この水にも、この清修佳所。弥陀仏。」
聖道宴を享受したのは、私は信じるべき行だけではなく、肩だっツァンヤン・ギャムツォ、私は深くも、ドアの弟子。前に出た古刹路は深いのは、フジ、老木と川がない、付き合うの客。本当にあなたの足音が聞こえた、またびくびくし、速く歩く速度が速くて、この時、あなたの先をの亭とアンティーク建設の角がとれました。
憶測必要はない、それは黄庭坚記念館。これまで、私は全部で4度来て、一回すべて盲人ができて、しかしやはりその場にいて。今私は望まない自分に習熟する古韻を持ちたい、墨客の心に関係なく、どこに来て、単身、怒って立ち去る。拝むの心、汚染、描写しないで、それは心の中で、私は文明に殘。その壁の上の書道、靑石の古跡、  


Posted by cindy1232  at 15:21Comments(0)