2018年08月07日

金曜日に届いてい

朝。出かけるとき、既に暑い。出勤途中でスポーツドリンクを1本飲んでしまった。500mlのやつ。

作業開始。金曜日の予定が、出張が入ったため、今朝にずれ込んだ。1時間ほどの作業だったが、消耗した。

残りは、メールの処理とか、デスクワーク冷凍溶脂價錢。金曜日に届いていたメールも込みで処理する。

夕方になると、パソコン作業が続いたせいか、目がちかちかしてきた。

出張旅費の精算をしようとして、財布をアパートに忘れてきたのに気がついた。土曜日、病院に行ったときに別の鞄に入れて、そのままにしていた。

今日、普通に生活する分には、電子マネーで充分足りるが痔瘡 內痔、発作を起こして病院に駆け込んだとか、そういう、いざというときには、電子マネーは使えない。

何事もなく、無事に、いざというときの出費がないように、おとなしく仕事して、おとなしく帰ってきた。

大雨とか、台風とか、不穏なニュースが聞こえてくる红磡通渠。短時間でどっと降らなくても、あたりの熱気を洗い流してくれる程度の雨の方が嬉しい。天気に文句は言えないけど。。。。  


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2018年08月07日

昼日中から浮か

デパート不況が言われるようになって久しい。
かつて隆盛を誇ったデパートが次々と閉店に追い込まれている。
デパートのターゲットは当然ながら「日中に自由に買い物をする権利のある人」。
昔は10時開店、6時閉店と決まっていた。
こんな時間帯に買い物できるのは、よっぽどのブルジョワか、
中産階級のいわゆる専業主婦。
”企業戦士”と呼ばれる主人を送り出し、あとは自由。
おまけに給与が振り込まれた銀行のキャッシュカードを握っている。
それに見合った買い物をしていれば咎める者はいない。
デパートの顧客は、こういった人たちの支えで成り立っていたとも言える。
今はそういった層ももはや老年。かつてほどの購買力はない。
世の中は今、夫婦ともに働くという世界。お財布も別々。
キャッシュカードを握って、昼日中から浮かれてはいられない。
デパート不況というより、
こんな風にライフスタイルが大きく変わったとも言える。

1970年代までは、若い女性の職業(?)に「家事手伝い」などというものがあった。
(この言葉に聞き覚えのある人は、もう、老いの域に入っています。)
これは高校なり、短大、あるいは大学などは出たけれど、
特定の仕事を持たない女性が職業として、かりそめに書く言葉。
「嫁入り前の状態ですよ」
という意味を表す言葉でもあった。
のちに結婚し、のんびりと専業主婦として過ごす。
こういった人がデパートを下支えしていたとも言える。

世界を見てみると、かつての様々なデパートも日本と同じく下降線を辿っている。
そして今、世界を席巻しているのは"GAFA" すなわち
Google,Apple, Facebook,Amazon。
こういったビジネスが、ライフスタイルまで変えてしまった。

デパートが一つのステータスで、「家事手伝い」という職業(?) があった
そんな時代が妙に懐かしい...

  


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2018年06月29日

指先から脇の下ま

かつて利き腕を骨折した友。「あれは難儀だった」と苦笑いしながら、

当時の生活の苦労を語ってくれた。



最も困ったことの一つが「手洗い」。指先から脇の下までギプスと包帯毛囊發炎で固定され、両手でゴシゴシと水洗いができない。

「当たり前が当たり前でなくなって、初めて気付くことがあった」。

そう言いつつ、自分の手のひらを、いとおしむようにさすった。



南アフリカに古くから伝わる言葉に「片方の手が、もう片方の手を洗ってくれる」とある。

汚れた右手、左手も、重ねてこすれば、互いが互いを洗って、両手が一緒にきれいになる。

同時に、そうした身近な存在だからとい痔瘡切除って感謝を忘れてはならない、という戒めにも思える。



あらためて、身近な人々を思い浮かべてみる。

家族、友人、近隣、職場の人々……私たちは、人との触れ合いを通して自身を磨いている。

“長所しかない”という、完全無欠な人など一人もいない。

互いに欠点を抱えながら、励まし合い、時にぶつかり合い、切磋琢磨する中で、人は成長していく。



池田先生は「人間は、人間を離れて人間になれない。

人間の中でこそ、より大きな自分となり眼霜推薦、より大きな喜びを得るのだ」と。

あらためて感謝したい。あの人、この人に。共に歩む全ての同志に。  


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2018年06月29日

脳が疲れるのだ

お~おお~つって観客の声援が漫然と響いているところ

これが大きく展開しないパス回しのあいだじゅうずっと続いている

騒々しいのに音にメリハリがなく、脳が疲れるのだ

野球の場合、多くは各選手の応援歌があり、かっとばせ~〇〇!という一定の節があるので混乱がない

応援というよりは一体感に酔っている感じ

その集団の外にいると冷めてしまうのも仕方ないのかもしれない

サッカーでの国内の盛り上がりを疎ましく思うようになって久しいが今夜は答えが見つかってスッキリした  


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2018年05月29日

季節を感じられる

取り寄せている無農薬野菜の農家さんから、夏みかんがたくさん届く季節になった。


季節ごとに採れた恵みを採れただけそのまま分配される仕組み日本讀化妝なので、季節を感じられる野菜や果物や卵がその年の天候なども反映した出来映えで送られてくる。
不作の年は本当に不作だし、豊作の年は食べきれないほど届く。猛暑では卵の数が減ったりもするし、虫害が多い年は穴あきだらけの青菜ばかりになり、かと思えば筍や梅などすぐに処理をしなくてはならない季節ものも待ったなしでやってくる。

四季の恵みを直に感じられるし、自然体で得る農作物がどんな様子になるのかが垣間見れるので、子供たちにもいいと信じて続けているのだけれど、偏って届きがちなのが難点。
消化しきれないものがいくつかあって投資日本樓、夏みかんはそのひとつだ。
しかも、届く無農薬野菜全般に言えることだけれど、どれも新鮮で味が濃くてたくましいだけに、手強いものはだいぶ手強い。夏みかんもかなり酸っぱくて、酸味が強いものに胃をやられやすい私はあまり量が食べられないので余計に余りがちになるのだ。

毎年マーマレードにしてストックしておくことが多いのだけれど、今年はふと思い立ってマーマレードを作った中から一部を取り分けてドライピールにしてみた。
そしたらすごく美味しくてびっくり!
手強さが生かされてグミみたいに歯応えがあって、食欲のない朝にちょっと口に放り込むと一気に体が冴える爽やかさがあり、冷蔵庫に置いてちまちま長く楽しめるのもすごくよかった通渠佬。皮全部を毎日楽しむものだから、無農薬の皮で作る価値もある。


というわけで、先週末に届いた分で本格増産中!
コトコト砂糖と煮て、水分飛ばして煮詰めて、乾燥開始。
楽しみだな~。


しかし。。
私が作ると、ややおしゃれな響きのはずの「ピール」さえ「THE 保存食」て感じになるのは何故  


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2018年05月29日

家康を船を出し

魚市場はどの地方でも『活きの良さ』が売りですが、こと東京の魚河岸はその代表の一つかもしれません(๑•̀ㅂ•́)و✧
今和次郎先生も『魚河岸の景気のいい兄いたちのかけ声を聞けば、腐った鰹まで生き返ってくる』と喩えております。それほどまでに活気があり華やかな場所、それが江戸~東京の魚河岸です(*^_^*)
材木商同様、江戸時代初期からこちらにやってきて徳川家康から江戸前の漁業権を勝ち得たのが佃島の漁師たち。彼らは元々摂津に住んでいたのですが、そこの神埼川で立ち往生をしていた家康を船を出して渡してやったという縁で江戸にやってきたそうです。てか実は私、これって家康が呼びつけたとばかり思い込んでいたのですが(^_^;)どちらにしろ家康にとって信用できる集団=江戸城に納める魚を任せることが出来ると思ったのでしょう。
更に江戸城に収めた後の余りを市民に分けることを許され、日本橋小田原町にその売場を開いたとのこと。それが日本橋魚河岸の始まりでした。
そう、元々魚河岸は日本橋にあったのですよ・・・しかし関東大震災を機に芝浦への仮移転を経て築地に移りました。その理由は魚特有の悪臭(>_<)
五街道の起点でもあり、多くの名店がひしめく日本橋、その地価だけでなく暖簾にまで法外な権利がついて回っていたのに、魚の匂いがあるがために・・・ということになってしまったらしい(´・ω・`)
また、あくまでも個人的な見解ですが日本橋ではあまり交通の便が良くなかったのではないかと思われます。何せ築地の方が海に近いですし、現代でこそ使われていませんが線路まで引き込んで列車が横付けできるようになっていますからねぇ。流石に日本橋じゃ列車の横付けはできない/(^o^)\
実際南は台湾、北は北海道、千島、樺太、カムチャッカの魚までが集まり、関八州、東北、甲州信州の山奥まで売られていったとのこと。東北だったら地元のお魚のほうが美味しいと思うんですが・・・そこが築地ブランドなんでしょう(^_^;)

なお当時の築地魚市場組合員は問屋、問屋件仲買人、仲買人合わせて1290人もいたそうです(゚∀゚)更に買い出しの魚屋、料理屋が1日2万人。1日の売上総額が平均20~22万円、一週間に6日、四週間+αとして27日位市場が開かれているとしたら月540万~594万円ほどの稼ぎになります。材木問屋の億超えには及ばないですが、当時としてはかなりの大金。魚河岸の勢いを感じます  


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2018年03月06日

戦争が起こると

スロベニアの悲劇

戦争が起こると、陸にも海にも被害が及ぶ天然資源が失われ、それがさらなる暴力を呼びます。戦争生態学は、戦争と環境が相互に及ぼす影響を研究する学問であり、平和の確保に役立つ側面も持っていいます。


ビエケス島(プエルトリコ)では、住民のがん婚禮統籌入行雁患率が周辺のカリブ海諸国よりも高いです。また、スロベニアの土壌には、有毒な水銀が帯状に分布しているいずれの場合も戦争が原因です。ビエケス島沖では、米国海軍の訓練演習の際に有害な軍用品が大量に投棄され、これがさまざまな病気につながっています。


スロベニアの水銀は、第一次世界大戦の最前線となったソチヤ渓谷で展開された弾幕砲火の化学的な痕跡です。戦場となった地域では、景観全体が激しい戦闘で燃え尽くされ、破壊されます。そして、戦争を取り巻く混沌から、さらに大きな被害が生じます。法律や規律が実効性を失い、天然資源が略奪され、密猟も広まります。アフガニスタンでは、紛争の頻発によって森林破壊率が急上昇し、パキスタンでは「木材マフィア」が景重な木材を収奪した。こうした場面に登場するのが戦争生態学です。


戦争生態学は、戦争が環境に及ぼす影響と環境が戦争に与える影響を調べて、天然資源の危機から暴力へとつながる筋道を断ち切ることをめざしている按摩抱枕。エルニーニョが関係する気象事象と内戦の関係についての論文が掲載されており、両者の間に強い関連性が見られます。


米国の功罪

ことを明らかにしている、21世紀初頭においてもなお、人類は、地球の管理よりも暴力紛争に長けている一方国防総省の予算は、米国国立科学財団の100倍もあります。戦争生態学に対しては、多額の軍事予算を利用したいだけの研究だという批判が必然的に起きている。戦争生態学者は、どうすれば、この冷ややかな見方を変えることができるのでしょうか。生態系と国際援助活動の関係を調べたり、難民キャンプにソーラーパネルを設置して、生活を向上させ治安をよくするような技術的提案もその1つです。戦争が終わった後、きれいな水や食料生産など、平和の継続に必要な生態系サービスを復活させる方法を提示するのも大事な仕事でしょう。それに、「平和公園」の推進もあると思われます。


平和公園

平和公園とは国境線沿いの自然保護区域であり、地方政府と中央政府の利害を共通化させて、観光事業を通じたビジネス・チャンスを生み出そうというものだ。しかし、戦争生態学には悩ましい側面がいくつもある。アフガニスタンで平和公園の建設に参加した経験を持つリッチモンド大学(米国バージニア州)の生物学者PeterSmallwoodは、人心をつかみたい兵士がこうした平和公園プロジェクトを熱烈に支援するため、民生的活動と軍事的活動の区別があいまいになってしまった、と指摘されています內痔 開刀。一方で、戦争が生態系と希少な生物種に恩恵をもたらしている面があります。この事実には、はっきり言って居心地の悪さがある。交戦地帯、軍事基地、兵器研究施設は、すべて事実上の保護区域となっており、現在、その多くが、生物多様性を念頭に置いて管理されています。


細やかな命

北朝鮮と韓国の間の非武装地帯は、タンチョウゾルなどの絶滅危倶種にとって安息の地となっています。また、コロンビアのゲリラ戦士に占拠されたジャングル地帯では、開発の心配をしないですんでいます。だからといって、戦争生態学が戦争状態の継続を望まねばならない理由などありません。。平和構築のための準備作業を進めておけば、交戦地帯が解放されたときにそれを生かすことができると思います。


アメリカの思惑

現在米国は厳しい財政事情にあり、聖域とされてきた国防省予算でさえ厳しく削減されています。こうした生態学や自然保護の研究が真っ先にカットされるのは目に見えています。しかし、こうした緊縮財政のもとでも、戦争生態学研究は継続されるべきであろう。戦争生態学にはグレーな面がつきまとう。宣伝活動と平和創出活動の中間に位置付けられ、また、危害を緩和する活動と暴力を広報によって糊塗する活動の中間に置かれているからです。それでも、ヒトと環境の交わりに関する研究は、社会にとって大きな意味を持ちます。戦争は、恋愛、音楽、果てしない好奇心とともに、人類の最も特徴的な活動であるからです。ミジンコも同様です。食物連鎖の底辺にいる生物たちは、真っ先に殺されます  


Posted by cindy1232  at 15:46Comments(0)

2018年03月06日

手元を照らしながら

浓密な体毛が见ていて、特に、この肌の季节には、人が美しいスカートを着て长い足をしているのを见て、自分はまだ「痛み」を隠しています。激光脫毛邊間好どのような方法で抜け出せるか悩んでいますか?达人の秘密が抜けて、自分に合っていることを选びまかせ。
ラジウムの脱毛も一种のレーザー脱毛で、レーザー光を利用して肌の内部で毛袋の中の黒色素を破壊し、毛を伸ばして成长させた。価格はやや高く、万元が必要であり、何度か何回かを行うことで永久の脱毛の効果を达成する必要があり、學生優惠広い范囲の除毛に适用されます。

tips:このようなレーザー脱毛も个人の体质に决まっていて、使用后は小毛を出しています。激光脫毛價錢レーザーを完成させた后の介护は繁雑で、ケアが必要です。



介護の重要性

どんな方法で脱毛しても、毛后のケアはとても重要で、特にレーザーの类です。脱毛後、肌が弱い紫外线の直射日光を避けて、必ず使うスキンケアたいケア製品を選ぶことも重要だと、酸类、美白、避けて行く角質の製品、保湿クリームやローションを塗ることができて、しかしレーザーに毛の医者を塗るようにする規定の膏薬を待肌が安定してこそ、他の製品を使用する。

 裕太と颯太が真夜中まで話し込んで、母さんに怒られている頃・・・

1つの人影が、夜の闇に紛れて走っていた。

その人物は、迷うことなく、目的の場所までたどり着くと、

慌てたように、小学校の花壇をスコップで掘り返している。

手に持ってきた、懐中電灯を、横倒しにして、手元を照らしながら

何かを探している・・・

中々見つからないようで、スコップを突き立てては、次の場所へ・・・

を繰り返して、移動しては、同じことを繰り返している。

そうして繰り返すこと数10分。

ようやく何かが突き当たったようで、いったん手を止めると、

懐中電灯を手に取り、その穴を照らしてみる。



 黒々とした穴から、黒いビニール袋に入った包みを取り出すと、

急いで、足で土をけり出すようにして、再び穴を埋め戻し、

何度も何度も、スコップで土をたたいて、踏み固める。

そして満足したように、立ち上がると・・・

スコップを用務員室のドアに立てかけると、急いで懐中電灯と、

黒いビニールの包みを手に、立てかけてあった、自転車に飛び乗った。

まるで、誰かに見つかることを、恐れるように・・・

自転車のライトは、あえてなのか、点灯しないままに。



それは、ほんの数分の出来事で、それに気付くものは、誰もいないようだった。

男は・・・自転車をこぎつつ、ポケットに手を突っ込むと、おもむろに、

校舎の窓にめがけて、何かを投げつけた。

ガシャン!という、窓ガラスの割れる音が響いてくると、男は再び

全速力で、自転車をこぎ出し、あっという間に夜の闇の中に、消えて行った。

その場には・・・割れた窓ガラスと、自転車のタイヤの跡だけが、くっきりと

残されるだけだった。  


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2018年02月09日

家族ぐるみでお

10年ほど親しく付きあっていた夫婦がいた(仮にBさん夫婦と呼ぶことにする)。
 年齢はわしらより少し下(5歳ていど)だったが、家族ぐるみでお互いの家にもよく行き来した。いっしょにくるまに乗って食事に出ることもあった。

 そのBさんの奥さんが、60代後半あたりから支付寶優惠、あれ、ちょっとおかしいぞ、というところが出てきた。専門の病院でみてもらって、初期の認知症と診断された。
 ああ、ついにすぐ身近なところに現れたか・・・と、改めて現代とリアルに向き合うような気がした。
 しかし向かい合って話しているぶんには、ほとんど正常と変わらなかった。 

 驚いたのは、子供たちの反応の速さであった。
 Bさん夫婦には子供がふたりる。二人とも男だ。長男はマニラに住んで大々的に事業をしており(妻もフィリピン人)、次男は親からくるまで1時間くらいのところに家庭を持っていた。

 子供たちふたりで相談はしたのだろうが、具体的に動いたのは日本にいる次男である。母親に認知症の気配が出た段階ですぐに老人ホームを探しはじめた。
 そしてあれよあれよというまにコトは進んで、Bさん夫婦は老人ホームに入れられてしまった。

 70歳前後だった亭主のほうは、まだ年相応に健康だった。だがホームに入って半年もすると、びっくりするほど老けてしまった。
 つい2,3年前までは、これからおじラグビーを始めようと思うんだ、みたいなことを言っていたのに、彼らの住む老人ホームを訪ねたとき、部屋があんがい狭支付寶いのでそう言うと、「これでいいの。すぐにここよりもっと狭いところに入るんだから・・・」みたいなことを言うようになっていた。顔つきや肌からも生気が失われて、別人のようだった。

 奥さんの方はともあれ、しっかり自分があるように見えた亭主まで、子供のいいなりに唯々諾々とホームに入ってしまったことが、実はわしには意外だった。

 どんな家庭にも、第三者には分からないそれぞれの事情があるだろう。しかしそれにしても、第一次反抗期も第二次反抗期もない子供のように、ひたすら従順にこどもの言うことに従うB氏夫妻を、わしは理解できなかった。ほとんどボー然と眺めていた。

「老いては子に従え」という。
 しかしはっきり言ってそれは子供次第だろう。

 わしらには子供がいない。夫婦で選択した結果だが、正直老いが近づいてきたとき、不安がないことはなかった。自分たちには頼るべき若い柱がないことに心ぼそさを覚え排毒瘦身、首筋に涼しさ感じながら、しだいに光を失う西空を眺めることもあった。

 だがこういう事例を身近に目にすると、”しっかりとした” 子供のいることが果たして幸せなのかどうか考えてしまう。

 何年か前のどこかの首相の言いぐさではないが、まさに「人生いろいろ」だ。
 それでいいのだが・・・。  


Posted by cindy1232  at 11:20Comments(0)

2018年02月09日

若さを羨ましいと

いま目覚めたこの朝が新しい人生はじまり

これは日めくりカレンダーの元日の言葉で、年を取ると、若い時のようにはいろいろ悩まず、まいいかと受け入れるから不思議である。鏡の前で、衰えてゆく体にも、おろおろしなくなった。若さを羨ましいと思う時もあるが、俊を経ることで得た静かなやすらぎもある。

もう大きな努力目標も立てない。失敗にも嘆かない。失敗ほど人生を深く考えさせてくれるものはないのだから。いくつかの後悔は心の奥深くあるが、そのことを思い出すたびに、素直になれるから不思議である。

1964年10月の東京オリンピックでは、一人海の底に沈んでいくような寂しさを感じたが、国にも人々にも高度成長の夢があり、理想が生きていた時代で、心も昂揚していたが、交通事故で人生が一瞬にして断ち切られたのは、開会式の数日前だった。意識がもどったとき、私は現実が理解できなかった。麻酔の言葉を聞いた。がオリンピックの記憶は全くない。市川崑監督の「東京オリンピック」を見たのが、私のオリンピックである。

でもも大丈夫、私をありのままに受け入れて下さった方々に支えられて今生きている。こんな書く場を与えて下さり、読んでくださる方々があってのお陰で、私の生きる力を頂いた。今日も新しい一日が始まる。兄弟みななくなって、車いす生活の一人ぼっちの大石さんのエネルギーにも驚く。感謝!  


Posted by cindy1232  at 11:16Comments(0)